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一等乳と認められるたびに集乳所は喜びの声がわいた・・・

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昭和の初期から酪農がはじまった。

酪農王国・標茶。その歴史をたどってみますと、明治・大正を通じて標茶の前身でもある熊牛村での搾乳の記録はほとんどありません。
ただ明治20年に釧路集治監に木造の牛舎が二棟建てられ牛が飼われていたようですがそれも囚人たちの食用か、農耕のための労役用だったといわれています。
また明治29年の資料によると、熊牛村には乳用牛官有3頭、民間2頭とありますが、その内容はよくわかっていません。
大正2年頃、大阪庄五郎という人が、太田村からエーアシャ3歳の牝牛を購入して乳をしぼりサイダーのびんにつめて軍馬補充部の官舎に配達。
さらに三本千蔵が大正15年ころ、茶安別から乳牛2頭を買い求めて乳をしぼったとだけ伝えられています。

なお後に標茶と合併した隣の太田村は明治24年に青森県から牝牛6頭を導入して畜牛を奨励し、大正10年に北海道煉乳会社出張所を設けて製酪事業を開始しています。
大正8年頃から、いくつかの農家が、それぞれ分離機でクリームを生産していたそうです。
昭和7年には太田村(上茶安別)の集乳所に、標茶から牛乳を出荷していました。
太田村は酪農の先輩として、標茶にも影響を与えていきました。

標茶で本格的に酪農が始まったのは昭和に入ってからで、茅沼で畜牛を飼育していた斎藤政六が標茶酪農の先覚者です。
根室から乳牛16頭を購入して搾乳をおこないました。
しぼった乳をバターチャンという機械でバター、クリームセパレーターという機械でクリームをそれぞれ作り、釧路に売りに出かけました。

また牛乳を標茶市街でも販売したそうです。
乳牛の繁殖にもつとめ、繁殖した牛を阿歴内や付近の入植農家に供給し、配合飼料もみずから米・糠・クズ大豆などを用いて作り、牛乳生産量の増加に力を入れました。

もう一人の標茶酪農の基礎を築いた功労者が植田織広で、香川県からマッキンレー・カーヒチンガデュール号というカナダ産の種牝牛を持参して、五十石に入植しました。

種牛マッキンレー号の写真

種牛マッキンレー号

コッタロの中村牧場で5頭の乳牛とともに飼養をおこない、生産された牛乳をクリームにして五十石駅まで運び、釧路に送っていました。
マッキンレーから生まれた牡牛はたいへん優秀な種牡牛だったため、村内の各地域で種付を希望する人が多く、熊牛村の乳牛の品種改良に大きく貢献しました。

憩いの場でもあった集乳所

虹別地区は明治時代から広い原野で多くの牛や馬が放牧されていました。
しかしこれらの牛は肉牛や農耕に用いられていたもので、乳牛が飼育されたのは、ずっと後のことです。

昭和4年に移民が入植し、そばやあわ、ひえ、じゃがいもなどを作りましたが、やせた火山灰地でそのうえ霧や摩周から吹きおろす強風のため秋の収穫は少なく、思うようにいきません。
しかも昭和6年、昭和7年と大凶作が続き作物の大半が全滅してしまう被害を受け、農家の人々は道庁に現状を訴え救済を求めるしかありませんでした。
そこで地域の自然条件に適した農業をおこなうため、「根釧原野農業開発五ヶ年計画」がたてられ、畑作農業から主畜農業への転換が図られていきました。
虹別に補助牛35頭が導入され、一戸当たり1~2頭の乳牛が飼われることになり酪農専門の技術員が指導にあたりました。
昭和9年に生産した牛乳を処理する集乳所が建てられ、中標津製酪工場に生産乳を運びました。
現在標茶の乳量は、釧路管内のおよそ30パーセントを占めていますが、そのうちの30パーセント近くを生産している虹別は、こうして酪農の中心地として基礎がかためられていったのです。

管内有数の馬産地だった阿歴内地区で乳牛を最初に導入した人に内谷権一郎がいます。
昭和5年から乳牛の飼養に力を入れるとともに、昭和8年には移民小屋を利用して中古の分離機を使い、部落共同でクリーム製造をおこないました。

これが阿歴内集乳所の最初で、阿歴内産業所合の東部集乳所となり、昭和13年には西部集乳所が設けられました。
当時の牛乳クリームの販売高は、昭和8年に1,660円だったのが、2年後は3,121円と急上昇し、その金額はそば、えんばく、大豆、小豆などの総売上げの5割を占めるほどでした。
昭和9年には標茶集乳所も設けられ、補助牛の導入とともに乳牛も増加していき、各部落にも次々と集乳所ができていきました。

標茶共同集乳所内部の写真

標茶共同集乳所内部

農家から集乳所まで集乳缶を背おって運んだのは、主に女の人たちでした。
40キログラムもあるため、次第に重みが肩にくいこみましたが「この牛乳でお米や子どもの服が買える」と思い、歯をくいしばってがんばったそうです。

こうした日々が十年ぐらい続き次第に自転車や馬車、馬そりで運搬されるようになりました。
集まった牛乳は一等乳はそのままで、二等乳はクリームにしました。
一等乳となると喜びましたが二等乳の時はみんなで原因を考えました。
ある時、集乳缶の中からじゃがいもが出てきて、「おまえとこの牛はいもまで出す器用な牛だな!」と大笑い。

集乳所では牛乳の処理だけでなく、「牛にこんなえさを食べさせたら乳がよく出る」など情報を交換することも多く、冬は娘さんたちが洋裁を習ったり、みんなでラジオや蓄音機に耳を澄ませたり、夜明け近くまで百人一首をするなど心のよりどころでもありました。

新しい息吹に満ちた酪農郷への出発(たびだち)

こうして地域の文化センターの役割も果たした集乳所でしたが、昭和43年ころからクーラーステーションに変わり牛乳の集荷はトラック輸送に、さらに昭和49年ころからバルククーラーが使用され、各農家から乳業工場へはタンクローリー車が活躍しています。
酪農の基本ともいえるのが、土づくり、草づくり、牛づくりです。
標茶の草地は原野の木を切り、切り株を抜いてきりひらいた土地で、草地を耕すことは容易ではありませんでした。
昭和35年ころからトラクターが用いられ、原野や傾斜地をスムーズにスピーディーに草地へと変えていきます。

草刈りも昔は手作業のため、一日に1アールも刈れればよい方でした。
刈った草は雨にあてないよう山のように積む「ニオ積み」にしていましたが今ではモアーという機械で刈り、こん包にするので品質が落ちることもなく、一定の量を計画的に刈り取ることができます。

重労働だった乳しぼりも、ミルカーからパイプライン、そして今では搾乳ロボットも導入されはじめ、手しぼりの時代から比べるとたいへん便利になり能率をあげています。
昭和16年、型枠によってブロックを積み上げる方法で作られ始めたサイレージ調製用サイロはスチール製やFRP製のタワーサイロへと発達し、さらに現在ではバンカーサイロやラップサイロが主流になっています。

最初のサイロ(昭和16年)の写真

最初のサイロ(昭和16年)

また、牛乳の生産量が増えるにしたがってそれを運ぶ道路づくりも進みました。
昭和34年に磯分内に雪印乳業の工場が出来てから、牛乳輸送の道路が次第に整えられ、磯分内~萩野~虹別を結ぶ道路、釧路川左岸を弟子屈に向かう道路、さらに磯分内~中御卒別~沼幌~久著呂を結ぶ道路など全町にミルクロードができあがっていきました。
今日も牛乳をいっぱい積んでミルクロードを走るミルクタンクローリー車。
標茶の酪農の歩みを告げるひとつの象徴ともいえそうです。

お問い合わせ先

標茶町役場 総務課電算管理係
〒088-2312 北海道川上郡標茶町川上4丁目2番地
TEL 015-485-2111 FAX 015-485-4111

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