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川舟から鉄道へ、そして道づくりへ

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釧路川の川輸送に活躍したポンポン船

陸に道路がまだない時代には、川が唯一の交通路で、釧路川を川舟で行き来していました。
一人の船頭がさおでかじをとり、のぼりは舟にふとい網をつけ、川べりを3~4人が肩に網をかけて「ヨイショ」「ヨイショ」というかけ声とともに引いたそうです。

夏は早朝の濃霧や朝露にぬれ、日中は汗まみれになり、夕方は虻や蚊におそわれました。
そのため、たえず木の枝で虻や蚊をはらい、冬は雪を踏みわけるなど、舟を引いてすすむのはかなりの苦労でした。
釧路から標茶まで上りは4日ほどかかり、乗客はみな食べ物をもって乗り、舟の上で七輪で炊事をおこないました。

人々の往来や荷物の動きが多くなると、引き舟に変わって動力船がその中心になりました。
大正5年、釧路・標茶間に発動機船があらわれ、ポンポンと音をたてて走るのでポンポン蒸気船とよばれました。
この船で営業をはじめたのが、釧路で鉄工場を営んでいた正置幸(まさきゆみき)です。

標茶~釧路間の蒸気船船着場の写真

標茶~釧路間の蒸気船船着場

焼玉エンジンを使って7トンの幸丸を運航しています。幸丸は朝の5~6時頃に釧路を出て標茶に着くのは夕方の5~6時で帰りは翌朝8時に標茶を出発し午後2時頃釧路に着いたそうです。
その後ほかの会社も運送を始め、釧標丸や小鷹丸、開栄丸などが釧路川の水運をうけもちました。

久著呂方面に移住者が入ってから、こうした発動機船の利用者は急激に増え、釧路から奥地に向かう行商人たちも大いに利用してまちの経済にも好影響を与えました。
旅客を主とするは発動機船、積荷を主とする引き舟の停泊所は開運橋あたりで、ここに建てられた気仙旅館は乗下船の切符を取り扱って、なかなかの繁盛でした。
昭和2年に釧網本線が開通すると、蒸気船はやがて姿を消し、釧路川の交通は終わりを告げたのです。

恵まれた水に育まれた漁場

西別川の上流は、清らかで水質がよく、古くから河口をさかのぼる鮭の大群がみられました。
西別川の鮭は味もすぐれており、徳川時代に松前藩は将軍へ献上していたとも伝えられています。

また明治の初めには鮭漁の濫獲を防ぐため官史が水源付近に駐在したそうです。
明治23年、虹別に水産ふ化場が設置されました。
このふ化場は千歳ふ化場と並び称され、本道の二大ふ化場として知られてきました。
今では、“獲る漁業から育てる漁業へ”とその重要性が認識されてきていますが、開拓時代の初期でしかも交通の不便な地に、ふ化場が設置されたというのは高く評価されることです。

一方、塘路湖の水産が注目されはじめたのは、釧網線の開通からです。
昭和3年に塘路漁業組合が設立され、加工品の品質向上をはかるため、昭和5年にワカサギの製造加工講習を開催しています。
この年の北海道拓殖博覧会では、出品したワカサギの佃煮が優良品として賞状を与えられています。
昭和7年頃塘路湖南岸に加工場が建てられ、製品は道内はもとより、東北や東京、さらに満州国にも販売され好評を博しました。

また、この組合は北海道さけますふ化場の指導でワカサギとウナギの養殖事業をおこなっており、発育成績も順調でした。

道づくりのはじまり

標茶町でもっとも古い道路は、虹別街道です。
鮭の豊富だった西別川を中心に、アイヌの人々が経済的に接触する好通路で、道路というよりも通路に近いものでした。
この道を幕府や松前藩の高官が通るのにともなって、そのつど、根室や釧路在駐の幕史がアイヌのひとたちを使役して補修にあたり、整備をすすめました。

この虹別街道に次いで古いのが、硫黄を運ぶため佐野孫右衛門によって明治13年に開削された釧路跡佐登間道路です。これが釧路から標茶に通じた最初の道です。
硫黄運搬の引き舟人足の踏みわけ路で、やぶの中を進む山道といったものでした。
明治22年に集治監の囚人たちが切り開いた標茶~厚岸(太田)間の道路とは比べものにならないほど原始的な道だったそうです。

幅3.6メートル、延長38キロメートルに及ぶ標茶・厚岸道路はその四年前にできていた厚岸~釧路の道路と結ばれ、釧路までの陸の交通輸送が可能になりました。
標茶~釧路間の道路が全通したのは明治25年のことです。
明治20年に設けられた標茶と遠矢の駅逓や明治23年の塘路の駅逓・人馬継立所の官馬もより有効に利用できるようになりました。

さらに23年に弟子屈、硫黄山に設置された駅逓と結ばれて、内陸への交通がより便利になったのです。
北海道交通史に、明治22年7月の標茶の人馬継立賃銭は、人足一里が6銭(至急9銭)、馬一里が8銭(至急12銭)と示されています。夜中や冬期間は2割増しだったそうです。
当時の貨物輸送はもっぱら馬により、ふつうは馬十頭をつなぎ馭者が先頭に乗って輸送していました。
その後、標茶から奥地への輸送は駄馬から馬車運搬に変わっていきました。

喜びにあふれた釧網線の開通

川湯の硫黄山から標茶まで鉄道を敷いたのは、安田善次部(今の富士銀行、元の安田銀行の創始者)です。
明治21年に開通したこの鉄道は釧路鉄道とよばれ、道東で最初の鉄道でした。
機関車はアメリカ製で2両、貨車はイギリス製で20両が使われました。
これらは釧路港での輸入第一号だといわれています。

釧路鉄道は機関車を用いなかった茅沼炭鉱鉄道を別として、明治13年創設の手宮・札幌間、同15年に創設の幌内鉄道に次ぐ、道内では三番目に古い鉄道でした。
時は流れ、昭和2年9月15日。
新築されたばかりの標茶駅のホームに汽車が入ってくると、黒だかりの人の山からドッと歓声があがりました。
待望の釧網線が、標茶まで開通したのです。
幾度かの延期や変転を経てやっとこの日を迎えた人々の喜びは、ひとしおでした。
汽車をひとめみようと久著呂や阿歴内方面からわざわざ出かけ、むしろを敷いて見学した人もたくさんいたそうです。

釧網線開通を祝う塘路駅(昭和2年)の写真

釧網線開通を祝う塘路駅(昭和2年)

明治29年から政府は北海道に鉄道を敷く計画とその実施に取組み、その中に菱川線(釧路~厚岸~標茶)の計画もありました。しかし、太田屯田村の開拓が自然条件の悪さから発展が遅れ、菱川線は幻に終わったのです。
そして、念願の釧網線の開通です。
子どもの旗行列、夜は提灯行列、煙火もたえず打ち上げられ、まちをあげて祝賀会が繰り広げられました。
釧網線は昭和6年に釧路~網走間が全通しました。

昭和12年10月30日には標津線が全通しました。標茶~根室標津間69.4キロメートル、厚床~中標津間47.5キロメートルの鉄道です。この標津線の開通により、標茶駅は二階建てに改築されました。
大正11~2年頃から釧路市の石井花屋がアメリカ製のグラハム・ブラザーズというトラックを運行していましたが、鉄道の発達とともに自動車輸送の交通機関は幕を閉じていきました。
こうして標茶は道東の鉄道交通の要所として重要な役割を果たしていったのです。

馬鉄から簡易軌道へ

大正時代に入り、根釧原野の各地に入植する人がふえてきました。
大正4年には久著呂は15戸、阿歴内は11戸の入植者を数え、その後も磯分内、上茶安別、上御卒別、沼幌などに、新しい土地を開拓する人々が続きました。
古くから開けていた塘路と標茶は奥地に向かう入植者の物資の調達場所として重要な所でした。
小型の線路の上を車輌(トロッコ)で馬に引かせる軌道(馬車鉄道)は、この時代の重要な交通機関といえるでしょう。

標茶で最初の軌道は昭和5年に敷設された塘路~中久著呂間の軌道久著呂線。
昭和8年には上久著呂まで延長されています。
昭和7年には西春別~計根別を結んで、鉄道標津線開通まで大きな役割を果たしたのが軌道標茶線です。
阿歴内線は昭和13年に塘路~阿歴内間が開通し、牛乳を釧路に運ぶ輸送機関としても大いに活用されました。

茶安別線も昭和13年に標茶駅裏を起点として敷設されました。
しかし、この線は貨物輸送にはほとんど利用されず、わずかに少量の木材の搬出に活用されただけでした。

戦後、標茶町には1,159戸の入植がありました。
これらの入植者の交通の利便をはかるため、昭和27年から簡易軌道(ジーゼルエンジン車)の工事をおこない、昭和38年に完成。
標茶駅~開運町~下オソベツ~厚生~新道口~神社前~中オソベツ~大曲~上オソベツ、さらに中オソベツから分岐し、第二区~第3区~沼幌の合計12ヶ所の停留所が設けられました。

この軌道によって、368戸の農家の牛乳や資材、日用品などの貨物と旅客の輸送がされました。
軌道周辺の人々はずいぶん便利になりましたが、車輌の運行は一日に1~2往復だけで、軌道から遠く離れて住んでいる人たちは、馬や徒歩で行き来しなくてはなりませんでした。
やがて、トラックや乗用車が普及され、離農者が多くなったため利用が大幅に減り、昭和47年には全線が廃止されてしまいました。
軌道にかわって町営のバスが運行し、現在も町民の大切な交通機関のひとつとして、利用されています。

町営バス運行開始の様子を写した写真

町営バス運行開始

お問い合わせ先

標茶町役場 総務課電算管理係
〒088-2312 北海道川上郡標茶町川上4丁目2番地
TEL 015-485-2111 FAX 015-485-4111

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