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シベチャのはじまり、鮭番人が置かれて・・・

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八百年前コタンを形成していた人々

標茶とは、アイヌ語の「シペチャ」が語源で「大川のほとり」を意味しています。
この町の歴史を静かに見守り続ける母なる川・釧路川やシラルトロ湖・塘路湖の周辺には数多くの遺跡が発見されています。
なかでも「金子遺跡」や「二ツ山遺跡」から七千年も昔にこの地に人が住んでいたことがわかりました。
さらに歴史をさかのぼると、釧路川沿岸や湖沼地帯はかつては海だったと言われています。
塘路湖に海跡動物イサザアミがいることからも遠い昔、標茶は海であったことがわかるそうです。

アイヌの人々は、800年前から標茶に住みついたと伝えられています。
彼らは血縁が寄り添ってコタン(集落)を形成、茅と樺皮で作った家に住み、豊かな自然の中で狩りや漁を営んでいました。
川や湖で鮭や鱒、ワカサギなどの魚をとり、野や山でエゾシカやヒグマなどの狩をして生活していたのです。プクサ(アイヌネギ)やトレップ(うばゆり)ペカンペ(ひしの実)なども採取していました。
ペカンペを採るのはわりと優しく、天日に干すと貯蔵もきいたので、冬の保存食としても用いられました。生で食べてもおいしいし、プクサを炊きこんだサヨ(粥)をつくれば、重病人の栄養食にもなりました。
また母乳がわりに乳幼児にも与えられていました。
ぺカンペは澱粉を多く含んでいたので、アイヌの人々の食料として、大切な物だったのです。

天地自然を尊ぶ風習は独特なもので、塘路のペカンペまつり(現在は行われていません)と虹別のクマまつり(現在は行われていません)は、カムイノミ(神への祈り)の儀式です。

久寿里場所で交易がおこなわれた

標茶を通って太平洋にそそぐ釧路川。この川ぞいにいくつものコタン(集落)が作られ、アイヌ人は丸木舟で川を行き来していました。
その昔、釧路はクスリ(久寿里)と呼ばれ、天明三年(1783年)に松前藩主の直領として和人の漁場・久寿里場所が開かれました。寛政十一年(1799年)に東蝦夷地(太平洋側)が幕府直轄になり、勇払と白糠に八王寺同心百人を屯田、伊能忠敬等が蝦夷地の精密な測量を行うなど、開発政策が積極的におこなわれました。

さらに釧路川べりの標茶や虹別に久寿里場所の番屋が作られました。
釧路川を通じてアイヌの人々は和人と接し、和人はこの川をさかのぼって次第に内陸へと進出していったのです。

当時標茶の番屋では、上流でとれた鷲の尾羽や乾鮭、熊肝、熊皮などの狩猟品と生活用品とを交換していたようです。
寛正九年(1789年)の『蝦夷巡覧筆記』には「トウロ」が、さらに文化三年(1806年)『東西蝦夷地図』には「シッヘッチャ」や「ポンベツ」(虹別)の地名が書きあらわされています。

後幕領期時代(江戸時代末期)の釧路開発の功労者が、佐野孫右衛門です。
久寿里場所の請負人として、南部奥羽、函館地方から漁師を集め、道路を開くなど、道路の基礎を築きました。
明治元年に川上郡が誕生。明治二年から二年間、川上郡は厚岸郡、釧路郡とともに佐賀藩の支配地になっています。
明治五年、根室役所の管轄になり釧路国各郡のアイヌの人たちの扱い方は、佐野孫右衛門にまかされました。

標茶町発祥之地の碑の写真

標茶町発祥之地の碑

移住民の上陸風景(明治44年・小樽港)そして明治八年。
川上郡の村名はトーロ村は塘路村、クマウシ村は熊牛村、ニシヘツ村を虹別村、テシカゝ村を弟子屈村、クッシャロ村を屈斜路村と漢字に改められたのです。

移住民の上陸風景(明治44年・小樽港)の写真

移住民の上陸風景(明治44年・小樽港)

明治九年に試掘し明治十年から本格的に事業を開始した跡佐登硫黄山の硫黄を運ぶため、釧路から標茶を経て弟子屈に入る道路を二十数里(80キロメートル以上)にわたって開削したのも佐野孫右衛門です。
現在の標茶の基礎を築いた恩人ともいえるでしょう。

明治十八年には熊牛村外四ヵ村の戸長役場が塘路に設けられ、やがて一歩ずつ発展への道程を歩きはじめていきました。

お問い合わせ先

標茶町役場 総務課電算管理係
〒088-2312 北海道川上郡標茶町川上4丁目2番地
TEL 015-485-2111 FAX 015-485-4111

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