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大火におそわれた市街から・・・

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標茶で気象観測が続けられた

明治18年、塘路に熊牛村外四ヵ村の戸長役場が設けられました。
その4年後には川上郡が釧路郡役所から離れて川上郡役所となり、集治監典獄だった大井上輝前が郡長と川上警察署々長を兼任しています。

集治監の書記や看守長の一部も郡書記や警部補を兼ねたため、仕事の範囲は多岐にわたりました。
この制度が改変され、川上郡役所が廃止されて、もとの戸長役場が復活し、明治35年まで続きました。

役場は一時期、集治監の構内にありましたが、のちに現在の町立病院付近に移っています。
また明治22年、標茶に釧路二等測候所が設置されています。

釧路二等測候所(明治22年)の写真

釧路二等測候所(明治22年)

これは北海道開拓に大きな業績を残した開拓使顧問のケプロンが未開の地・北海道の開拓は科学的な調査と実験が必要であり、気象観測も重要であることを指摘したためで、函館、札幌、根室、寿都、旭川、網走に設けられていました。
はじめ釧路の郡役所に測定の機械を備えて観測していたのですが、標茶に移転すると同時に晴雨計、寒暖計、風力計、雨量計、風信器などを完備して観測を開始します。

標茶郵便電話局が明治24年に完成してからは、毎日3回定期気象電報を中央気象台に打ち、気象台から天気予報電報や臨時警報電報を受ける度に駅逓の前など市街の2~3ヶ所に掲示したり、測候所で信号旗を高く掲げて、村民に知らせていました。この観測は明治42年に釧路に移転するまで続けられました。
明治29年8月9日、皆既日食の写真撮影に成功しており、この観測は各地とも失敗していただけにたいへん貴重な資料だといわれています。

熊牛村(くまうしむら)から標茶村へ名称を変更

昭和2年に釧網本線が釧路から標茶まで開通しました。
これにともなって村勢が飛躍的に発展されるものと期待されました。
そこで「熊牛村」の地名は、大井上輝前が「風そよぐ楢の葉音も身にぞ泌む名も恐ろしき熊牛の里」と歌に詠んだと伝えられている通り、文字の印象が強く、しかも集治監の所在地であったところから未開で無気味な辺境の地を連想させるため、この機会に村名を改称しようという声が強まっていきました。
村会でこの問題がとりあげられ、標茶は中心市街の地名であり、古くから知られていることから昭和4年、標茶村と改められたのです。その後標茶村は入植者を次々に迎え、人口増加とともに次第に発展を遂げていきました。

標茶村役場(昭和10年)の写真

標茶村役場(昭和10年)

昭和19年、役場庁舎が全焼。明治29年に建てられた古い建て物でしたが、行政の中心として長く村民に親しまれており、戦時中の資材不足の時期でしたから、村長をはじめ関係者や村民も大きなショックを受けました。
とりあえず仮庁舎を標茶青少年錬成場に置いて、ただちに執務を開始しました。
類焼をまぬがれた農業会館を改修して、この年仮庁舎を移し、その後5年間は庁舎建築の積立をしながらここで村政にあたっています。

地方自治法の施行により、昭和24年4月、村長選挙と村議会議員選挙がおこなわれました。
この新しい選挙は村民にとってはじめてのことばかりでした。
特に村長の直接選挙であり、有権者の年齢が満20歳まで引き下げられ、さらに女性が選挙に参加することは戦前には考えられないことで、とまどう人も多かったようです。
昭和23年、しばらく仮庁舎でがまんしていた役場の新庁舎が、ついに完成。
終戦後の役場庁舎の建設は、その当時の釧路管内9ヵ村の中では最初のもので、その規模も最大でした。
村民は標茶劇場でおこなわれた芸能コンクールや翌日開催された小学校校庭での野球大会で、待望の役場の完成を祝いました。

終戦後、昭和21年から昭和24年までのあいだに、高等学校、保健所、標茶中学校、村役場、診療所などが相次いで建てられました。これら村の基幹施設の大部分が、村民の自主的な協力でおしすすめられていったといえるでしょう。

村立診療所(昭和25年)の写真

村立診療所(昭和25年)

標茶郵便局(昭和4年)の写真

標茶郵便局(昭和4年)

そして、昭和25年11月1日終戦後着実に発展を続けてきた「標茶村」は町制施行により「標茶町」となりました。
町民は大喜びし、記念旗行列に参加しました。沿道をうめつくした“日の丸"は新生標茶の象徴にも見えました。

大火におそわれた市街から

昭和27年に十勝沖地震がおこり、木炭製造施設が被害をうけましたが、その他はあまり影響をうけませんでした。
胸をなでおろしたのもつかの間で、翌年、標茶市街は大火におそわれました。

標茶町大火(昭和28年)の写真

標茶町大火(昭和28年)

罹災した世帯は全焼100世帯、半焼2世帯、460人に及んだのです。
特に商工業者は、家とともに商品の全部を失い大打撃をうけました。
大火後まもなく、標茶町に復旧を目指す槌音が鳴りひびき時ならぬ建築ブームとなりました。
この大火をきっかけとして、翌年、商工会が設立されています。
一方、町は昭和25年から赤字となり、次第に財政難となりました。
土木建設事業にお金がかかったこと、また町税や保険税の納入不足などが原因でした。
町では財政をたて直すため、町民に協力をよびかけました。財政再建法の適用をめぐって、町民大会も開かれました。
この話し合いによって、財政の厳しいことが町民に認識され、町の対策もやむをえないことがわかり、町政と住民が一体となって財政再建に向けて努力しました。

昭和30年に太田村の一部(茶安別)が標茶町に合併されました。
太田村は本村と茶安別地区があり、茶安別地区には標茶を経由して入植していました。
中茶安別は標茶から約13キロメートル、上茶安別はわずか2キロメートルの距離にあり、入植者の子どもたちは標茶小学校に入学し、日常の生活用品の大半は標茶市街を利用していました。
経済的にも文化的にも標茶の生活圏内にあったため、茶安別地区と標茶町との合併にはほとんど反対する意見がなく、合併に伴ういくつかの問題もスムーズに処理されていったのです。

さまざまな困難をのり越えて、標茶は一歩ずつ前進し、昭和45年に町役場も新築され、住みよい町づくりを力強くすすめながら現在にいたっています。

お問い合わせ先

標茶町役場 総務課デジタル推進係
〒088-2312 北海道川上郡標茶町川上4丁目2番地
TEL 015-485-2111 FAX 015-485-4111

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